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Ze R'quiem

2008-11-25

No.1課題:「観光するオタク オタクする観光」より

10:20

ゼロアカ道場第三関門 井上ざもすき氏の論考を実際に書籍化された状態を想定し、第三章の一部を抜粋した。

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第三章 「ゼロ年代とそれ以降の観光」p.198より抜粋

「〔……〕

 有名だから有名なのだ、というトートロジーの内実は、「みんなが知っているであろう」という共通知識が強く働いている。それは実際に多くの人間がそれについての知識を持っているだけでなく、知識を持っているということについてもまた知識を持っていなければならない。そしてかつての「観光スポット」は、その宣伝手法が非常にマスメディア的であった。マスメディアは、その性質上、単なる知識・情報の伝達のみならず、共通知識を形成しやすかった。マスメディアの影響力が下がっている現在、中心になるのはmixiに代表されるヴァイラルマーケティングである。マスマーケティングは、その広範囲低密度に広がったインフラを生かし、情報を人に届けるのが主な目的であった。それは簡略化すればば「情報×人」という図式に表すことができる。一方ヴァイラルマーケティングは、狭い範囲に密集した人間のネットワークの間に情報を流通させる。主軸はメディアのインフラではなく、あくまで人間同士のネットワークである。図式化すれば「人×人」と言えるだろう。

 この場合、コストとベネフィットの効率が高いが、その範囲はある程度限定された「島」に止まり、爆発的な効果を生み出すにはその「島」を架橋する必要がある。それは情報が多様な人間に伝わるために自身が持つ(持たされた)「強度」と言ってもいいかもしれない。マスマーケティングの時代においては、その強度を担保するのは張り巡らされたインフラだった。インフラに乗せさえすれば、あとはひたすら露出を増やすことで「有名だから有名」というトートロジーを作り出すことができる。しかしヴァイラルマーケティングにおいては、メディアはあくまで人と人を結ぶものであり、情報がその間を流通するかどうかは、情報そのものが持つ強度にかかっている。

 速水氏が「再ヤンキー化」と名付けた現象の中で、彼ら地方のヤンキーが消費する音楽や小説の中に、固有名詞がでてこない、という指摘は興味深い。それは上記のようなマスマーケティングの失効により、かつての「有名だから有名だった」地名・人名が彼らの意識に上らなくなったことを示している。上らなくなったというのは不適切かもしれない。そもそもここで議論していたのは、ヤンキーの単なる趣味趣向の問題ではなく、メディア上を流通するコンテンツが、マスマーケティングの失効とともに、コミュニケーションのネタとしてより強度を持つようなものへと変化している、という話だった。そのような文脈と重ね合わせれば、ヤンキー文化の固有名詞の無さはまさにそうした変化の証左と言える。情報が中央から周縁へと流れ、人々の意識が周縁から中央へと向けられていたマスマーケティングの時代から、狭い島の中で連鎖するコミュニケーションの中に情報が組み込まれるヴァイラルマーケティングの時代へ。かつての有名だから有名というトートロジカルな固有名詞が、閉じた環境の中でコミュニケーションを繰り返すヤンキーたちの「ネタ」としては選択されなくなっていった。

 前章までにとりあげた「聖地巡礼」を行うオタクたちもまた、そうしたパラダイムの変化の結果と言えるだろう。彼らの「巡礼」は多くが複数人で行われる。彼らは行く先々でそこをモデルとしたアニメやマンガについて語る。その語りが目的となっている場合も多い。まさに閉じた島の中で「ネタ」として消費する行動の一つである。彼らが時間とお金をかけて、仲間と特に一般的には有名とは限らない場所を巡るのは、そうした場所が彼らにとってそれだけのコミュニケーションを接続するにたる強度を持っていると判断されたからだ。

 一方、同じく前章までに紹介した「工場萌え」「廃墟萌え」は、これと対になるタイプの移動である。「聖地巡礼」が、場所を徹底して「ネタ」化しているのに対し、「工場萌え」「廃墟萌え」はそのように他者の存在を想定しない、孤独なフェティシズムの結果といえる。「聖地」の場合は、その空間の奥にあるマンガやアニメを介してコミュニケーションが可能だが、工場や廃墟は、それに対する個人的な記憶や体験をその空間の向こうにみていることが多い。それはコミュニケーションのネタとしては強度が低く、従って複数人でコミュニケーションを伴う移動ということにはなりにくい。

 ここで一度議論をまとめる。メディアが人々に影響を及ぼす形式が変わり、マスマーケティングからヴァイラルマーケティングへと情報が流通するスタイルが変化した。その変化は、従来の「有名な」スポットを巡る観光のあり方そのものをまず一度地盤沈下させた。その結果浮き彫りになった(発見された)観光のスタイルは二つある。一つは場所そのものを徹底してネタ化し、場所そのものの奥にある高密度の知識を使いコミュニケーションを接続させる方法。もう一つは、場所を徹底して個人の体験に引きつける方法。

 この二極化をもってして、「これはそもそも観光という概念の内実が変わったのである。」と締めても良いのだが、いささかそれはシニカルすぎる。現実に観光に行く人間の数は減少しており、例え観光と言う概念が変化していたとしても、数字は概念が現実と解離していることを示している。つまり現状の観光を支える商業的な戦略がうまく現実を捉えられていないということだ。

では以上の議論を現状認識とし、今後いかなる観光の形が望ましいのか、望まれているのかを検証していこう。

「神話」をいかに作り出すのか

 文芸批評家の福嶋亮大は、連載中の「神話社会学」の中で現代を「現前性の時代」と呼んだ。かつて「表象の時代」においては、人々は何らかのメディアを通してある種の<現実><真理>にアクセスしようとした。しかし現前性の時代においては、そのような大文字の現実や真理は存在しない。変わって個人が消費するための小文字の現実を提供する、「神話」が登場する。神話とは、「コミュニケーションに最適化された物語」のことであり、かつて我々がそれを通してその向こうの<現実><物語>にアクセスしようとした人工物(メディア)を、逆にそれが自然であるかのように周到に我々に現前させる。

 福嶋の用語系では、神話は、それを作る要素である神話素と、神話素を結びつけて神話へと昇華させる媒介物の演算子から出来ている。例え神話素がいかにおもしろくない、平凡なものであっても、演算子次第でそれは十分神話になりうる。神話はかつての人工物を「ヴァーチャルな自然」として現前させる。それはそれを通して何かその向こうにある物語や歴史を垣間見せようとはしない。我々は神話を通じてあくまで他人とコミュニケーションするだけである。ヴァーチャルな自然は消費者としての我々を囲む一種の環境である。

 「有名だから有名」な従来の観光スポットが廃れ、今や観光としての場所は人々のコミュニケーションを支えるための強度が要求されるようになった。こうした現状で、以上のような福嶋の論考は観光論においても参考に値するといって良い。その一例がTDLである。観光スポットの地盤沈下は、平行して(もしくはそれ以上に)テーマパークにも起きている。その中でTDLはご存じの通り「一人勝ち」状態にある。それはTDLがこの現前性の時代にあって、コミュニケーションに最適化された「神話」を作り出しているからに他なら無い。

 TDLは「ディズニー」という神話を作り上げている。そこに登場するキャラクターはそれぞれ個別の物語から派生したキャラクターであり、TDLの背後に何か大きな物語が存在しているわけではない。個々のキャラクターやガジェットの集合が、その奥の歴史や物語を生み出すことは、無い。人々はディズニーランドという神話的空間の中で、キャラクターやアトラクションをあたかもそれが自然に存在するかのごとく振る舞う。人々はそこで人工物に「遊ばされている」のではなく、自然の中で思うままに遊び、コミュニケーションするのだ。

 またテーマパークではないものの、DECKS東京内にある「台場一丁目商店街」に代表される一連の昭和30年代の下町をモチーフにした商業施設も、同列に置くことが出来る。「台場一丁目商店街」に並ぶブリキのおもちゃや駄菓子、古雑誌などのガジェットは、それを並べることで昭和30年代がどういう時代であったかという<歴史>を作りだそうとしているわけではない。あくまでもそれらは商品であり、再現された町並みは店舗であり、そして、であるからこそ、「台場一丁目商店街」という神話が生み出したヴァーチャルな自然である。人々はそこにある光景が本当に昭和30年代にあったのかということなど気にしない。TDL内を闊歩するキャラクターが「本物」であるかどうか気にしないのと同じように(中の人などいません!)。それはあくまでも「自然」であり、問われるのはそれが他者とのコミュニケーションを接続できるかどうかである。

 これら二つの商業施設が成功した理由は、それぞれの神話を構成する神話素(キャラクターや古い玩具など)同士を結びつける「演算子」の選択の妙である。演算子とは神話素同士の関係性を統御する一種のメタデータである。「台場一丁目商店街」という神話においては、そこで使われる「懐かしい」「ノスタルジックな」という形容詞は、もはや実際の懐かしさやノスタルジーとはまったく別物である。それはブリキのおもちゃ、駄菓子、古雑誌などをうまく神話へと昇華させるための操作技術である。

 またノスタルジーブームと境界を共にするのが、立ち飲み屋の流行に代表されるような「B級」グルメへの注目である。00年代以降に流行った多くの立ち飲み屋は、昭和30年代的な雰囲気を店内のモチーフにしていた。ただこれはノスタルジーというよりB級という演算子で括られた側面が強いと思われる。「B級」という言葉は、既にある廃れた観光地を神話の中へと回収し、新しい形で観光地の「リサイクル」ができるかも知れない。不況下の現在においては、ラグジュアルな神話よりそうしたものの方が受け入れられる素地が多い。それはヤンキー的メンタリティの文脈では、「ホラースポット」的な受け入れられ方も期待できよう。

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