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nisemono_sanの日記

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2008-11-19

id:anisopter02さんへの質問 00:04

 発案者として、先陣を切って文章をあげて頂き、まことに感謝致します。その熱意に対して何かこたえるべく、こちらから拙いですが、応答を差し上げたいと思います。

 anisopterさんが言いたいのは、次のような事態なのかな、と自分は理解しました。つまり、「異なる価値観を指摘するならば、その異なる価値観というものを比較可能にしているものはなにか、ということに無自覚すぎるということ。もし、この比較可能なものを『価値相対主義者』にならって否定するとするならば、そもそも異なる価値観は現れない。そして、比較可能なものの枠組というのはいったいなんなのか」ということである、と。

おそらく異なる価値共同体同士の闘争は不可避ではない。もっとミクロな視点に立てば、そのような共同体の周辺部では、絶えず価値観を異にする他者との間で翻訳や解釈が起こっているはずだし、そのような絶えざる「根元的解釈」のプロセスこそが、「世界の見通しの悪さ」という、この社会に対しての私たちの雑駁な印象をも、根底では支えているはずです。

 僕はこの部分が、上記の要約と比較して、一貫性をかけているのではないか、と思いました。というのは、上記に照らし合わせるならば、「闘争」という行為を捉える視点が、既にある一定の「共約可能性」を指し示している、と僕は思う。「闘争」という定義を、「絶えず価値観を異にする他者との間で翻訳や解釈が起こっている」ということであるとするならば、それは並列された共同体がお互いに争っているというモデルであり、それはまさに先ほど述べた「相対主義的な事実認識」だと思う。それを「不可避」としてしまうのは、ちょっと僕は弱い気がする。むしろ、問題は、anisopterさんの議論でいうならば「闘争が起きる条件」であるわけです。でなければ、「闘争」という視野自体が無意味になる。

 さらに言うならば、それを「価値共同体の周辺部」と無自覚に続けてしまうのもどうかと思う。「価値共同体の周辺部」に行くから「根元的解釈」のプロセスが生じて「世界の見通しの悪さ」が起きてるの?それウソでしょ?そんなに「価値共同体の周辺部」に接する人なんているの?っていうのが素朴な疑問。それに「価値共同体の周辺部」にいたからといって、「見通しが悪い」ということになるとは、僕は思えない。だったら「絶えず価値観を異にする他者との間で翻訳や解釈が起こっているはずだし、そのような絶えざる「根元的解釈」のプロセス」を行っていたであろう宣教師達は、果たして「世界の見通しの悪さ」を持っていたの?と僕は思う。

 それが「「世界を俯瞰すること」の困難と可能性についての思考」という一文に繋がっていると思う。「世界を俯瞰すること」の困難と可能性というものの前に、それに妥当性があるの?という素朴な疑問はある。「なんで『世界を俯瞰』しなきゃあかんねん」っていう話だって十分ありうる。にも関わらず、それを志向する妥当性があるならば、一体それは何なのか。

 もうすこし不満を述べるならば、「世界を俯瞰すること」ということと「世界の見通しの悪さ」だって本来繋がるのか?という言い方はできる。これは素朴な疎外論で、「世界の見通しの悪さがあるのは《何かがジャマをしているから》であって、それを解決できれば/それを排除すれば「世界を俯瞰すること」に可能性があるんだー!」ってことになる気もする。いや、それでもいいんだけど、でももしかしたら《何かがジャマをしている》という不快感こそ、我々が視点に対してフェチズムを起こさせているという言い方だって出来るんじゃないのか?それはどうなのか?っていう気もする。

 まとめます。自分の公開質問は次のとおりです。

  1. 「異なる価値共同体同士の闘争は不可避ではない」という問題に関して、「闘争が闘争として捉えられる視点」とは何なのか?
  2. 「そのような共同体の周辺部では、絶えず価値観を異にする他者との間で翻訳や解釈が起こっているはずだし、そのような絶えざる「根元的解釈」のプロセス」は本当に「世界の見通しの悪さ」に繋がっているのか?むしろ、この二つは関係が無いのではないか?
  3. 「世界を俯瞰すること」の妥当性とはなんなのか?
  4. 「世界を俯瞰すること」ということと「世界の見通しの悪さ」の両者の関係は上記に書かれたことでいいのか?

宜しくお願いします。

[]参加者を承認いたしました。 21:28

d:id:mine-oさんを、参加者として承認いたしました。どうぞ宜しくお願いいたします。

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