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nisemono_sanの日記

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2010-09-30たたき台として公開

アンダーグラウンド・コネクション――第一章・MAD動画の歴史・前編(草稿) 22:51

個人複製技術の誕生

まず、MADの存在自体が「個人複製技術」と平行していることを指摘しなければならない。

「個人複製技術」というのは、私達がテープレコーダーやビデオデッキによって、個人が勝手に映像や音声を録音することが可能になる技術の総体を指す。わざわざ「個人」というのを付けたのが、あらゆる複製技術は業務用と個人用に分割されるからだ。少なくともテープレコーダーが発売された当初に、CDを個人で作るということが可能であるのは一握りであったことは間違いない。

また、音声および映像が複製可能=録音可能になった時点で、既にそれが編集技術と密接な関係を持つ、という事実も指摘しておきたい。如何なる録画技術であれ、その録音の始まりと終わりは必ず存在する。その始まりと終わりを決定すること自体が、既にその情報を切り取る目線=編集として現れる。コラージュという技法自体は、美術史的に言うならば、既にピカソの『藤編の椅子のある静物』(1912年)が有名であり、それ自体は珍しいことではない。しかし、彼らが使用した技法は、その性質上、自然物等のコラージュをふんだんに使っており、むしろそれらは「複製技術」から隔たって存在している。むしろ、私達が注目するべきなのは、フォトモンタージュを「発明」したと主張するラウル・ハウスマンが、軍事記念の絵はがきからアイデアを思いついたということを確認すること*1のほうが、私達の考えにより近くなるだろう。

だが、「紙」――というより静止画――はその性質上「個人複製技術」とは、その技法が「切り刻み、配置しなおす」という方法では同質であっても、実際の編集現場において異質であることは間違いが無い。「紙」が少なくとも再生する機械が必要なくても、その作品を見ることが出来るのとは違い、音声/録画は、再生機械の存在が必要となる。私達は新聞に挟まれた広告を、ハサミを持ってくることによってコラージュすることは可能であるが、録音にしろ、録画にしろ、まず段階として記録しなければならず、また記録するにしたところで、それらを編集するためには、また職人的なハサミさばきが必要になった筈である。

私達が問題にしたいのは、そのハサミさばきというのが、むしろ録音スイッチのオン/オフによって切り取るという作業のほうがより一般的であったということだ。既に一九七八年によって最初の「MADテープ」の存在が確認されている*2が、私達が問題にしたいのはむしろ一九八一年における「タモリオールナイトニッポン」において「つぎはぎニュース」というコーナーが存在していたということだろう。ポイントは恐らくラジカセの値段になるのだが、一九六九年に二万七千八百円の、さらにマイクとラジオの音がミキシングできるラジオが存在していることから考えるならば*3、二つのラジカセを用意して、切り貼りすることを考えることは、難しいことではない。またもう一つのポイントとしては、ラジオ文化における「エアチェック」という文化だ。「エアチェック」とは、ラジオやテレビ番組を録音して楽しむことを指す言葉なのだが、「エアチェック」の文化が、八〇年代にはそれなりにあったことを考えるなら、既に録音して、その音声をためておくことに抵抗が無かったのは間違いないだろう(むしろ、その文化の延長上にMADテープが存在していた、と推測することが可能だ)。

そして、ビデオテープの普及によってMADテープにも新たな局面が生まれる。

音声と映像を切り離す

基本的に、編集としては「切り張り」という方法が一番簡単であることもあって、最初のMAD作品群が歌詞のきりばりであったり、NHKニュースのきりばりであったことは、最初に確認した通りだ。しかし、段々ビデオデッキが普及するに従って、映像までもがその「切り張り」の対象となっていく。

ここで、一つ面白い証言を紹介する。それは"このサイトの1978年論ノート"というものだ。ここでは七十年代のアニメ視聴文化を、記憶出来ないもの=一回性のものとして捉えており、八十年代のアニメ視聴文化を、記憶し録画するものとして移行していくという視点を持っている。当然のことながら、問題はビデオデッキの普及率なのだが、一九八四年には18.3%という統計が出ている*4。 

映像作品の自主制作自体は既に、一九八三年に発表された「愛國戦隊大日本」などがあるように、映像の編集自体は、同好の間でそれなりに行われていたというのは妥当ではあるが、しかしMADテープのあり方と、それら自主制作のアニメーションは製作の方法として距離があることを確認しなければならない。そして、その距離こそが、音声を使ったMADテープと、映像を使ったMADテープの違いを際立てるものでもある。

両者共に素材を製作し、編集しなおして配置するという方法は一緒なのだが、例えば後に作られた「タクラビジョン」の映像を見るとわかるように、あるアニメの主題歌に対して、それに合うアニメーションを配置するという方法を使う。少なくとも、ここでは単なる配置の妙を競うだけではなく、一つの映像作品に対する反省のあり方も反映している。それは簡単に言ってしまえば、「音声と映像を切り離す」という操作のことである。

もちろん、音声には音声しか存在しない以上、この操作は事実上ありえない。だが、ビデオデッキが登場し、絵と音が存在するようになった以上、同時にまたこれらを切り離すという操作も同時に生まれる。またアニメ自体が、オープニングアニメという存在が生まれている以上、このように映像と音を重ね合わせるというあり方もまた親密であるように思われる。これらは演出に対する反省が無ければ生まれないことでもあり、そしてそれを踏まえた上で笑いに持っていくという操作が必要でもある。

また、もう一つ指摘しておくならば、これらの録画技術がアニメを「一回性のもの」から「録画し何度も見れるもの」にした上で、「何度も視聴したことを前提としてその作品を作り直す」という過程が恐らく存在している、ということだ。これは推測でしかないが、恐らくそうだろう。自主制作のアニメーションと違うのは、何かしらのシーンをリテイクすることはあっても、そのシーンをその場所において使用するということは決定されている。だが、MADの場合は、膨大なシーンの情報から、何のシーンを利用するかというところからポイントを絞らなければならない。もちろん、MADを作るということを前提とした見返しもありうる、のだが。だが、それでもアニメが「一回性」から「見直すもの」に視聴が変化した上で、現れるものである。

切り貼りという問題――何を切るのか、貼るのか

歴史的に見るならば、ラジカセからビデオデッキという個人が気軽に複製技術を行えると言うツールが生まれたことによって「MAD」という表現が生まれたことを確認したのだが、しかし問題なのは、現在における「静止画MAD」と「音MAD」という表現の問題だろう。これらの「MAD」の表現は、最初のMADの派生からするならば、かなりその表現から隔たっているのは間違いない。恐らくこの歴史的過程についてはまた今後検証するとして、仮説的に二つの可能性を指摘しておく。

まず自分が理解している「静止画MAD」は、何かしらの元動画に対してキャラクターを入れ替え、さらに自分で手描きしたものを「静止画MAD」と呼んでいると理解している。これらの系譜は恐らくエヴァンゲリオンのオープニングパロディとして「キャラクター入れ替えフラッシュ」が多く作られたことに規定されているのではないか、と考えられるのがまず一つ。それを水脈と考え、さらに元々「MAD」の核となっている概念が「切り貼り」であるとして、決してそれが素材だけではなく、内部のキャラクターを切り貼りしていると考えるならば、確かにそれは「MAD」なのだ。

つまり、映像/音声という差異だけではなく、映像にもまた切り貼りできる要素が存在しているというのがポイントであり、その切り貼りこそが、キャラクター/アニメーションという還元が行われたとき、アニメーション自体ではなく、キャラクターを切り貼りするという操作もまたありうる。そして、それは最初のMADの誕生からすればかなり「奇怪な」あり方ではあるのだが、しかし歴史を丹念に辿るならば、その土壌は少なからずある。それについては今後の検証にひき続けようと思う。

また、「音MAD」の仮説としては、まず映像MADの存在が大きいように思われる。音MADは、その系譜上ナードコア/J-COREを思い出させるものなのだが、多くの「音MAD」が「元ネタ」と、素材として使われる映像とその映像の「音」を使って元音源を再現するというこの三種類から構成されている。そして、映像自体が音に合わせて動かされ、その映像は確かにMADではあるのだが、「音」のほうは如何なる表現をすればいいのか。

説明していないことの一つとして、MADというのが「再現」と関係あるという言い方は可能だ。ビデオテープによって流布されたMADテープは、先ほども確認したように、音声と映像を分離して、新しく組み合わせることで笑わせるという手法をとる。先ほどもいったように、アニメのオープニングテーマに別のアニメのシーンを組み合わせていく、といったように。そういった場合、確かにシュールではあるが、それはフラッシュバックのように「ありうるかもしれないオープニング」として再現されているということになる。当たり前だが、ランダムにシーンを切り刻むだけでは、笑いどころか、ただ意味不明な映像作品でしかない。

MADナードコア/J-COREが、その方向性が「ある聞きなれた、あるいは面白い音ネタをサンプリングして面白おかしく音楽を作る」というところがありながらも、それが全く違うものとして現れるのは、この再現性の違いであるだろう。もちろん、J-COREにもアレンジ作品は存在しているし、ナードコアも音ネタを使う。だが、前者がシンセを使ったりしながら良くも悪くも「アレンジ」という方向性を残し、後者がネタモノテクノという元ネタとは違ったあり方を目指すのに大して、音MADはあくまでも「音ネタによる再現性の妙」を目指す。

とするならば、MADに必要なのは「再現性」に乗っ取ることである。その再現性を映像から音に影響を返してしまったという意味で、音MADが存在するようになったのではないか?というのが取りあえずの仮説であるが、ここについてもまだ検証する必要の多い問題である。

*1:参考:"コラージュとフォトモンタージュ・藤村里美氏の論文"より

*2:参考:TOK2.com /// 404 File not found...

*3:参考:HITNET(ヒットネット)産業技術史資料共通データベースに掲載されているMR-411を参考。ただし大卒初任給の推移によれば、大卒初任給は一九七〇年時点で四万円弱ということを考えると、普及するのにはもう少し時間がかかったように思える。

*4:参考:Nothing found for History 5

jituzonjituzon2010/10/01 15:49「複製技術」という観点から論じているのでベンヤミン的な解釈をすると、
MADはもう忘れ去られたもの・古いものを見つけ出して、映像を結びつけたり
音楽を繋ぎ合せることで新しい価値を付与する行為なので、ベンヤミンが
言っていた「見捨てられたものに新たに名前を付けることでそれを救済する」
ことなのではないかと考えられる。
また、文脈を切断して再構築するという意味においてはテクノDJがやっている
サンプリングとその再利用と同じだとも言える。リサイクルであり創造。
全ての言葉は誰かの借り物でありオリジナルなど厳密には存在しない、と
私は考えているが、MADもその思想で創られているのではないだろうか。
ただ音MADはそうかもしれないがニコ動のMADはネタ的要素が大きいので、
それはまた別の問題になりそうだ。二章ではそこを検証してみたい。

nisemono_sannisemono_san2010/10/02 11:40勝手に構成を作られている……

jituzonjituzon2010/10/02 20:09間違った、ごめん。
「二章ではそこを検証してみたい」は取り消しで。

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