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nisemono_sanの日記

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2010-10-02

アンダーグラウンド・コネクション――MADの歴史(中編・2) 15:31

メディアを読解しようとする意思にMADは宿る

また、別の方面から語ろう。

多くの人々がこの文章を読んださいに、頭に思い浮かぶのが、椹木野衣氏の『シミュレーショニズム』という書籍だろう。この本は、一九九一年に刊行されており、現代美術からハウスミュージックにおいて、盗用/サンプリングの問題を丹念に追った論文である。手元にこの書籍が無いためにこの書籍の内容に詳しく入ることが出来ないが、少なくとも「美術史」的には、既に「サンプリング」という問題が提出されていたということになる。そして、現段階で確認できる事実とは、「オーディオの進化」と共に「クラブ・カルチャー」の発展も同時に起きたということだろう。

クラブ・カルチャーの問題が、その切り貼りを音の気持ちよさ/流れとして作り出していく壮大な紡ぎによるものであるならば、MADの文化はむしろその切り貼りこそが「新しい笑いを生む」という違いはまず指摘できるだろう。そして、それは視聴者に対する「ラジオ/テレビ・リテラシー」の向上と無縁ではない。また同様に、「笑いのリテラシー」もそれなりに熟成される必要性があったと見るのが妥当だ。

そこで関係するのが、恐らくはそのメディアを、一つの規則に乗っ取ったものとして読解する意識の現われが無ければならないということは指摘しなければならない。というより、漫画やSFといった文化圏が、当初からその「メディア」に対する文脈を読み取ると言うリテラシーを持っており、賢い読者ならそれを読み取って笑うと言うことは可能だったと考える。例えば、漫画の文脈で言うならば、手塚治虫が漫画作品のなかで枠を破壊したりして暴れまわるという表現を使用したし、当時はSF作家の一人だと言われた筒井康隆も、一九八一年に『虚人たち』というメタフィクション(自己のジャンルに内在する文法に言及的な作品)を製作していたことを考えるならば、既に「メディア」に対するお約束に対する読解の意識は生まれていたと言ってもいい。

お笑いの文脈でそれを述べるならば、恐らく『オレたちひょうきん族』がそれに値するだろう。同時代に『8時ダョ!全員集合』があったにしても、メディアに対する意識そのものが「笑いになる」という製作が生まれてくるのは、この番組が代表的であるといえるかもしれない。例えば初期のコーナーに「ひょうきんニュース」であったり、あるいは「ひょうきんベストテン」などが組まれるなど、既にメディアの文法を読解し、それをズラすという作業が「笑いに結びつく」ということが、大衆的な習慣に訴えかけられたということを確認するだけでもいいだろう。もっと「おたく側」に引き寄せるならば、八〇年頃にちょうど「ファンロード」や「ジャンプ放送局」を確認するのもいいかもしれない。

もちろん、如何なるメディアであれ、習慣を持ちえなければそのメディアを扱うことは難しい。例えば私達はテレビにおいて、間に広告が挟まることを当たり前のように感じるが、しかしそれもまた「そのようにテレビが構成されている」ということを理解しなければ、番組と番組に挟まれる「映像」の意味を理解することが出来ないだろう。だが、さらにそのメディアを読解し操作するということが、さらなる発展形として笑いに結びつくということを発見したという事態が、恐らく八〇年代のメディアを特徴付けるものでもあると考えることは可能だろう。

もう一つ、関連として指摘しておかなければいけないのが、「クラブ・カルチャー」の切り貼りにしろ、MADの問題にしろ、それを切り貼りされるにさいして何かしらの欲望によって再編成されなければいけないということだろう。例えばクラブ・カルチャーであるならば、踊れる/気持ちいいという流れの形成と不可欠ではない。同様にMADの問題も、なぜMADMADとして開花したのかという問いに答えるならば、まず「笑える」という端的な事実から始めなければならない。そして、その「笑う」という問題に対して切り貼りが有効であるということが確認できなければ意味が無い。そして上記で確認したように、そのように「ズラす」ということが先行事例として「笑いを生む」ということが理解できる以上、それをまた利用しなおすということは間違っていない。そして、もう一つの問題として、その内在性が「クラブカルチャー」の場合は、「音楽」という内部に宿るのに対して、MADはあくまでもそのメディアという枠=外部に宿るというズレも言えるかも知れない。

それはどういうことか。例えばダンスミュージックにおいて、有名なドラムループにAmenというループがある。これはAmen Brothersが叩いたドラムソロの短い間が余りにも気持ちいいために多用されたドラムループの一つであり、Drum'n'bassなどで多用されることがあるが、しかしこのドラムループの存在を知ることが無くても、そのドラムに対して気持ちよさを理解することが可能である。しかし、MADの場合、その笑いどころが「それを知っているが故に面白い」というような、その作品の知名度を前提としている作品も多い。難しいのは、その作品の切り貼りが意味の「解放」という側面よりも、むしろ何かしらの「文法」を象徴するために利用されるケースが多いためなのかもしれない、と著者は推測するが、それは何とも言えない。

おたく」のあり方が、その性質上「メディア」と密接な関わりを持っているのは疑いようが無く、そもそも情報を得る回路が「メディア」という存在と関わっている以上、それは仕方ないことではある。ただ、これ自体に関してはもっと詳細に検討しなければいけない問題ではあるだろう。

このような話をしたのが、一九八六年に製作された十二支団によるえとけっとびでお『とらけっと』が、例えばコマンダー天気予報といったパロディや、あるいは、何度も同じキャラクターが踏みつけられるシーンを挟む、お笑い用語でいうところの「天丼」を利用したり、あるいは太陽にほえろのBGMに合わせてアニメキャラクターが走るシーンを集めたりなどの作品を作っているからだ。少なくともこのような作品が現れるためには、上記のような文脈が必要なのではないか、と考える。

jituzonjituzon2010/10/02 20:33クラブ・カルチャーという面から見ると「MOGRA」の存在を語らずに済ますのは
論として抜けが大きいのではないだろうか。今もMOGRAのust配信を視聴しながら
書いてるがあれこそ現代のMADカルチャーの最先端と呼んで過言ではないだろう。
音楽面においてもヴィジュアル面においても。
アニメ・同人・ゲーム音楽の間に突拍子もない邦楽を挟むという手法は「笑い」を
生むと同時に「謎の感動」をもたらす。それは単なる面白さや解放ではない。
これは私が先日コメントした「救済」ではないのだろうか。
ところで、椹木野衣の『シミュレーショニズム』は私はあまり良書とは思わない。
あれよりは『シミュラークルとシミュレーション』『複製技術時代の芸術作品』を
読み返した方がよほどためになる。古いからといって侮ってはいけない。
まあ似非原は椹木野衣と破滅ラウンジで関係があるからその名を出したのだろうし、
上記の本も読んでいながらあえて彼の本について言及したのだろうが。

ただこの指摘には完全に同意する。
>「笑う」という問題に対して切り貼りが有効であるということが確認できなければ意味が無い。
>そして上記で確認したように、そのように「ズラす」ということが先行事例として
>「笑いを生む」ということが理解できる以上、それをまた利用しなおすということは間違っていない。

nisemono_sannisemono_san2010/10/02 21:32コメントありがとうございます。
えーと、確かに「MOGRA」の存在は大きいのですが、いきなり「MOGRA」を出すことこそ、抜けが大きいというかまさに現状の「MAD」語りが欠落している部分で、そこまでにいたる歴史をちゃんとやらないと不味いですね。まずナードコア/同人音楽界隈があり、Akkyのクレーマー事件における「不謹慎テクノ」の存在とムネオハウス、ロケットマンの「交響曲第4126番「ハトヤ」」などの文脈を抑えつつ、MOGRAに引っ張らないと。
あと、実存さんなら大江健三郎が影響受けたロシア・フォルマリズムの「異化作用」のことが詳しそうだけどどうでしょう。それはMADというのが「耳慣れたものを耳慣れないようにする」という操作を含んでいて、確かに「救済」という主題は面白いのですが、むしろその日常に没落した意味内容を取り出すという意味も引っ張りつつ語らないと「救済」の意味が、それこそブラックボックス化しちゃうのは不味いかなーという気もします。

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