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nisemono_sanの日記

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2013-07-01

ようこそ、《外部》の時代へ 14:43

id:anhedoniaさんが戦後の自殺 - なげなわぐも観察日記にて、面白い結果を乗せている。さらに加えて自殺統計を調べた論文がある。『「アノミー社会学」『社会学評論』vol.55,佐々木洋成,2005,日本社会学会』の論文によると、1990年の地域における自殺者の平均偏差の低まりで面白いのは、東京都周辺のいわば「郊外」の部分のほうが自殺者が少なく、東京都自殺が多くなっている。ここで妄想をたくましくしておくならば、私たちは《外部》の時代に生きているのではないか、といってみよう。

《外部》の時代とはなにか。大澤=見田氏は時代を《夢(理想)》、《虚構》の時代へと別ける。その根拠は《現実》という言葉と何が対義語になっているか、という分析によってである。ここで面白いのは《夢》/《虚構》がひとつの連続性をたもちつつも、不連続性を保っているということである。《夢》も《虚構》も、ひとつの可能世界として存立しているように思われる。もっとありていにいうならば《世界》をひとつの世界ともうひとつの世界として区分されるような、世界として存立する。しかし、その一方で《夢》/《虚構》はまた大きく違う側面を持つ。それは、見田氏の言葉を借りるならば、《彩色》と《脱色》の原理である。《彩色》は「夢から現実を見る」ようなあり方としてある一方で、《脱色》は「現実から夢を見る」原理として成立する*1。実際、《虚構》のよそよそしさ/しらじらしさは、《リアリティー》と呼ぶ現実感らしきもので満たされている。ここで《彩色》を誤解してはならない。見田氏も注意深く述べるように*2、べたべたと鮮やかな色を塗ることは、それに対する感性を失ってしまうのである。そのようにして剥奪された感性こそが、その《虚構》のよそよそおしさを可能にしている。

さて、そのような衒学的解説はここまでにしておいて、一度自殺率が転換を迎えるときがくる。それがちょうど2000年からなのである。そこでは30―69歳の自殺者が一気に増え始めるのである。一番多いのは50-59歳,そして次が60-69歳。現在、景気上は好景気となっている以上、自殺者率も収まるように思われる。ここで興味深いのが、1995年に老人(70際以上)の自殺率が底をつく。これは何を意味しているのか。事実、70歳以上の自殺は、どの歳の人にもくらべて多かったのである。

考えようによっては、我々の《未来》なるものが底を突き始めた時代であるということを意味している。別の言い方をするならば、もはや《未来》に束縛されないあり方として存在しているということができる。従って、若者も急激にではなく、1975年代ごろの自殺率になっている。おそらく並列して面白いデータとしては1996-2000年の「健康本」のベストセラー6冊のうち、「心のもち方」が5冊以上を占めるということである*3。つまり、問題は「こころ」の中にあるというわけである。

これをいわば《心理学化》と揶揄するのはたやすい。しかし、問題なのは、内面(うち!)の関係として処理されているという事実である。そして、現実とはなにはともあれそのような《内部》として形成されているというわけである。例えば、先ほどの《夢》/《虚構》の枠組を取り入れつつ、次のように結論付ける評論もある。

学校は、共通の社会化の場として共有された意味空間から、用意された選択肢の中から手軽な選択を繰り返す場のひとつとして、市場化の中に包摂されていくことになるのである。教育における市場化と個人化の進展は、そのめざすところとは別に教育の意味も個人の選択も曖昧化していく。それに伴って学校の「現実」は、参照されるべき「反現実」を喪失しつつ、短期的な目標に対して合理的にふるまうことによって維持される曖昧で不安定な空間になっていると思われるのである。*4

この結論を私は支持したい。しかし、それは次の保留によってである。それは、参照されるべき「反現実」が存在しないのは、それが内部からはやってくるものではなく、外部から唐突にやってくるものだからであると。即ち、《夢》も《虚構》もひとつの内面世界において存立する。しかし、現実の現実らしき核はその内部からはやってこないだろう。大澤氏が不可能性と述べるとき、東氏が動物と述べるとき、あるいは木原氏が現実の時代と述べるとき(→500 Internal Server Error)、それぞれに共通して言えるのは、おそらくはもはや《現実》をこれだと名指しするものが存在しないということであろう。実際に、大澤真幸氏はあちらこちらのメディアにおいて「選択をなしても『これではない』という倦怠感のみがつきまとっている」と指摘している*5。欲望はそこには存在しないのである。

なぜ《現実》の対照が存在しないように見えるのか。それは決して《現実》が多様化されているからではない。もし《現実》が多様化されていても、実際にそれを生産している《世界》は存在しているのだから。だから、問題は《世界》から《現実》と《夢》/《虚構》に分岐する枠ではない。むしろ、そのような分岐を生むものへの問いが現れているのである。例えば、考えようによってはなぜ「マトリックス」なのか。なぜ「ハルヒ」なのか。なぜ佐藤友哉なのか――それは単純に我々が《現実》の外へ抜けられないという認識を共有しているからだ!(もし《外部》に抜け出せたら意思疎通など簡単だったかもしれない!)

そう、我々が生きている世界での現実とは、もう《外部》にしか存在していない。《外部》は《外部》であるが故に、《内部》には消極的に示されるしかないのであるし、《外部》が果たして本当に存在するのか、という懐疑だって行えるのである。先ほどの《彩色》/《脱色》の言葉を使うならば、《外部》の時代は、まさに《無色》なのである。しかし、その懐疑が存在している以上、《外部》は存在していなければならない。あれほどデカルトが懐疑しても《神》が出てきてしまうのと同様にである。そして、それはおそらく《内破》でしかありえない。《外部》はもっとみじめかもしれないし、もっとゆたかもしれない。しかし、きっと豊かだと信じる。

ようこそ、《外部》の時代へ。

*1:『気流の鳴る音』,真木 悠介,2003,筑摩書房

*2:『社会学入門』,見田宗介,2006,岩波新書

*3:「戦後日本の健康至上主義」『社会学評論』vol.55,野村佳絵子;黒田浩一郎,2005

*4:「市場化する社会における子どもと学校空間の変容」,稲垣恭子,2004,『社会学評論vol54』

*5:例えば、『群像』2006年における保坂氏との対談(『自由』の盲点)を参照

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